歌劇 幕臣・渋沢平九郎
武蔵国榛沢郡 (埼玉県深谷市)の農民から幕臣となり、飯能戦争に散った若武者・渋沢平九郎を中心に、彰義隊の頭取で後に実業家となり大成功をおさめた渋沢成一郎、富岡製糸場の初代場長・尾高惇忠、日本資本主義の父・渋沢栄一など、維新回天の推進力となった平九郎の兄弟と従兄弟たちが駆け抜けた幕末動乱期を描き出した青春群像歌劇(オペラ)です。
概要
平九郎は武蔵国榛沢郡(むさしのくに はんざわぐん)下手計(しもてばか)村の名主の三男として生まれた。長男の尾高惇忠(じゅんちゅう)(通称:新五郎)は、近郷の子弟を集めて学問を教える秀才、次男の尾高長七郎は、家業を継いだ兄の惇忠に代わって江戸に遊学。隣村には渋沢栄一と渋沢成一郎の従兄弟たちも住んでいた。それぞれが農民として家業に精出し平穏な日々を過ごそうとしていたが、そこに黒船が来航する。時代は彼らをただの農民で終わらせようとはしなかった…。
黒船来航以来、諸外国に対応できない江戸幕府への不信感が高まって、体制議論(幕府or新政府)が巻き起こり、日本各地で内戦が勃発。平九郎たちは同じ志を持ち合って、この大きな渦の中に自らの人生を切り拓こうとしていた。平九郎が忠義と義憤から戦に立ち、志半ばで倒れるまでを史実をベースに描きます。
見どころ
深谷、飯能、越生・・・。何度も何度も平九郎の足跡を辿り、この物語のために書き下ろされた脚本は、幕末当時の農民の苦しみや、兄弟と従兄たちを信じて、ひたすらに義を貫いた平九郎の純粋さを鮮やかに描き出しています。
幸福だった頃に幼なじみと一緒に歌ったわらべうた、次第に緊張が高まっていく高崎城乗っ取り謀議、彰義隊への参加と決別そして飯能戦争、平九郎を慕う幼なじみの想いなどが、平九郎が最期を迎える黒山のシーンへとセリフを歌にのせて繋がっていきます。
様々な場面を、時には哀しく、時にはダイナミックにオーケストラが奏でます。照明による演出効果や時代考証を経た幕末衣装もお楽しみいただけます。
主な登場人物
渋沢平九郎(尾高平九郎)
深谷市下手計出身の幕臣。尾高惇忠の弟。従兄の渋沢栄一がパリに渡欧する時、平九郎を見立て養子としたため、渋沢平九郎となりました。惇忠らと彰義隊、振武軍に参加し、飯能戦争を戦うが敗戦。深谷を目指して逃走中に越生にて敵兵と遭遇し応戦するも負傷。自らの最後を悟り、腹を切り自決しました。享年二十二歳。
尾高惇忠(通称:新五郎)
尾高家の長男。平九郎と長七郎の兄、栄一・成一郎の従兄弟。幼いころから頭が良く、近郷の人たちに学問を教える。栄一も教えを受けていた。高崎城乗っ取り謀議を栄一とともに立てるが、弟・長七郎の説得などにより断念。彰義隊・振武軍にも参加する。
尾高長七郎
尾高家の次男、惇忠の弟、平九郎の兄。栄一・成一郎の従兄弟。高崎城乗っ取り謀議を企て、挙兵直前であった渋沢栄一や兄・惇忠を説き、その不可なることを訴え、これを断念させようとした。
渋沢成一郎(喜作)
惇忠・長七郎・平九郎・栄一の従兄弟。高崎城乗っ取り頓挫により京都に逃れ一橋慶喜に仕える。慶喜が将軍になり幕臣となる。彰義隊を結成し頭取に就任。彰義隊脱退後は振武軍を結成し頭取となる。
渋沢栄一
惇忠・長七郎・平九郎・成一郎の従兄弟。尊王攘夷思想に目覚め、高崎城乗っ取り謀議を企てる。断念後は京都に逃れ一橋慶喜に仕える。慶喜が将軍になると幕臣となり、1867年のパリ万博に随員としてフランス渡航。その際に平九郎を見立て養子にした。
天野八郎
幕末期の幕臣、彰義隊副頭取。大政奉還により慶喜が水戸へ退去したため、彰義隊も行く末を決めなければならなかった。徹底抗戦を主張した天野と、慶喜退去に合わせて日光へ退く提案をした頭取・渋沢成一郎の間で路線対立が起こり彰義隊と振武軍に分かれた。
ゆき
平九郎の幼馴染。年貢の取り立てが厳しい中、貧しさゆえに江戸に売られてしまう。平九郎が江戸に来ていると聞きつけ彰義隊を訪ねる。
助左
尾高家に親子代々仕える使用人。平九郎が生まれた時から見守り続け、支え続ける。いつも平九郎と行動を共にし、平九郎に尽くす。
あらすじ
第1幕
高崎城乗っ取り謀議(尾高惇忠宅二階の間。1863年11月初旬。深谷。)
平九郎の実家二階の間では、兄の惇忠と長七郎、従兄弟の渋沢栄一や渋沢成一郎をはじめとする近郷の尊王攘夷派の同志たちが夜な夜な集まり、物騒極まりない計画を立てていた。それは、高崎城を乗っ取って武器を奪い、横浜を焼き払って外国人を皆殺しにするという恐ろしいものであった。
家業に専念する惇忠に代わって江戸に遊学していた長七郎は、水戸藩の志士たちと交流があったことから世の中を変える難しさを痛感していた。一方、機が熟したと感じた栄一らは、惇忠が書いた触書「神託」で、近隣の志士たちに檄を飛ばし、決起を促そうとした。このとき惇忠が「神託」を歌う。「神託」を聞いた同志たちは、何かに取り憑かれたように 「決起の歌」を歌い上げるが、その姿は死ぬことを夢見ているかのように長七郎には見えた。
長七郎・平九郎の死の動機(尾高惇忠宅二階の間。1863年11月中旬。深谷。)
いよいよ高崎城乗っ取りの決行日を決める時が来た。息巻く皆に対して、長七郎は意を決して口を開いた。合唱「八月十八日の政変」を歌う。今は尊王攘夷派を京都から排除する「八月十八日の政変」が起きたばかりで時期が悪いこと、同志の数が足りないことなどを挙げて、この計画は無謀で百姓一揆と変わらなく犬死することを主張。計画を断念するように必死に説得し、二日二晩の大激論となった。
そうこうしているうちに、お役人の知るところとなり、やむをえず断念することに。親族に塁が及ばぬよう、栄一と成一郎は京都に逃れた。惇忠と平九郎は郷里に留まり家業に努め、長七郎は再び江戸遊学の準備をはじめた。ここからそれぞれの運命が動き始める・・・。
京都(1864年正月。京都。)
栄一が逃れた京都は、幕府・薩摩・長州・新選組などの謀(はかりごと)に渦巻く物騒な町になっていた。合唱「京の町は物騒だ」を歌う。京都に逃れた栄一は尊王攘夷派から一転して一橋慶喜に仕えることになった。そんな時、京都の警護をしていた新選組の土方歳三に会う。
世の中はここから、新選組による多くの弾圧事件や、ええじゃないか騒動などで混迷を極め、江戸幕府は末期症状を呈することとなる。合唱「ええじゃないか」「新選組による弾圧」を歌う。
彰義隊結成(1868年2月23日。江戸浅草本願寺。)
ひと月前、京都で鳥羽・伏見の戦いがあり戊辰戦争の火蓋が切られた。成一郎が参戦。戦いは新政府軍の勝利となった。慶喜は大阪城を脱出し大阪湾から船で江戸城へ逃れた。将軍慶喜の逃亡により幕府軍は戦意を喪失し総崩れとなった。この敗戦により、朝廷から慶喜追討令が出され幕府は朝敵となる。
慶喜は新政府への恭順の意を表し、江戸城を去り上野寛永寺に蟄居したが、これに不満を持つ武士たちは、幕府と慶喜のために「大義を彰(あきら)かにする」という意味で「彰義隊」を結成した。頭取には渋沢成一郎、副頭取には天野八郎が選出され、千名を超える集団となった。
江戸の町は薩長率いる新政府軍(官軍)が跋扈していた。遠くから官軍が歌う「宮さん宮さん」が聞こえてくる。彰義隊の結束と「薩賊」討滅を誓い、天野・成一郎で「彰義隊の歌」、全員で「雪冤の歌」を歌う。
第2幕
彰義隊との決別、そして振武軍(1868年4月中旬。上野寛永寺。)
官軍・西郷隆盛と幕府軍・勝海舟の会談により、武力衝突なしで江戸城を官軍に明け渡すことになった。100万人が住む江戸は戦禍を免れたのである。男声合唱「江戸城無血開城」を歌う。開城と時を同じくして慶喜は水戸へと退去した。勝海舟は武力衝突を懸念し彰義隊解散を促したが、官軍と一戦交えようと各地から兵が続々と集まり、彰義隊は4000名に達する規模に膨れ上がった。
頭取の成一郎は慶喜が江戸を退去したため、彰義隊も日光に退くことを提案したが、副頭取の天野八郎は江戸に駐屯し徹底抗戦を主張したため路線対立が起こった。成一郎・惇忠・平九郎らは彰義隊を脱退し、同志300名とともに「振武軍」を結成し、上野を離れ田無に移っていった。成一郎・天野・惇忠・平九郎らは「彰義隊脱退の歌」を歌う。
ゆきは平九郎が彰義隊にいると伝え聞き、急いで上野寛永寺を訪ねるが時すでに遅く、平九郎が彰義隊を脱退した後であった。
飯能戦争(1868年5月18日~23日。飯能。)
天野八郎率いる彰義隊と官軍の戦い「上野戦争」が起こり、一日にして彰義隊はほぼ全滅した。上野戦争が終わると官軍はそのまま振武軍の追討に向かった。
成一郎たちは官軍の来襲に備えて本営を飯能の能仁寺に移して迎え撃つ準備を進めた。官軍がやってくることを知った飯能の村人たちは大騒ぎとなる。
5月23日早朝に官軍と激突。男声合唱「振武軍VS新政府軍」を歌う。圧倒的な兵力と火器を有する官軍に対抗する術もなく、振武軍は敗走。平九郎「敗軍のアリア」を歌う。
惇忠と負傷した成一郎は、平九郎に後を託して先に落ち延びた。平九郎は二人と再び合流する約束をして、振武軍の殿(しんがり)をつとめながら撤退した。
ゆきは、彰義隊を訪れて平九郎が脱退して振武軍となったことを聞き、その後、田無から飯能に移ったことも知り、飯能まで平九郎を探しに来たが、官軍の飯能総攻撃で飯能の町は炎上。必死に平九郎を探すが、どこにも平九郎の姿はなかった。ゆき「恋慕のアリア」を歌う。
第3幕
峠の茶屋(5月23日、昼過ぎ。顔振峠の茶屋。)
平九郎は夢中で逃走しているうちに仲間や助左とはぐれてしまった。ひと休みしようと峠の茶屋で足を止めた。茶屋の女主人に、深谷に向かう道をたずねたところ、落ち武者と見抜かれ、そちらには官軍が大勢来ているので行かない方が良いと忠告される。武士と見破られてしまうので、変装して刀を置いていきなさいと進言され、大刀を手渡し、身なりを変えて峠を下りていった。
少しして助左が現れ、急いで後を追ってゆく。しばらくすると、ゆきが峠の茶屋にやってくる。渋沢平九郎というお侍さまが来なかったか尋ねるが、女主人は名前まではわからないと答える。ゆきは、女主人のそばにあった着物の紋所を見て、平九郎の着物であり、ここに立ち寄ったことを確信し、平九郎を追って峠を下りてゆく。
黒山(平九郎自刃)(5月23日夕方。越生黒山。)
途中で一緒になった飯能の百姓女、傷ついた女児とともに峠を下りて黒山に到着。女児は介抱の甲斐なく息を引き取る。平九郎「嘆きの歌」を歌う。ゆき、やっと黒山にたどりつき平九郎を見つけるが、斥候兵に阻まれて、ゆきの声は平九郎に届かない。平九郎はたった一人で斥候兵に応戦するも被弾し、自らの死を悟る。平九郎「永訣の歌」を歌う。傍らの石の上に腰を下ろし、平九郎は自刃する。合唱 「渋沢平九郎」を歌う。(完)
制作スタッフ
制作・著作:渋沢平九郎プロジェクト実行委員会
渋沢平九郎の物語を、史実をベースにした歌劇にして上演するプロジェクト。母体は、埼玉県合唱祭で男声合唱を歌うために毎年1か月間結成される季節男声合唱団「埼玉県合唱祭で○○をうたう会」(○○にはその年に歌う曲名や作曲者の名前が入ります)。毎年短期間集まり、楽しく歌ってお酒を飲んでいた男声合唱愛好家の仲間たちが、一念発起してこの大きなプロジェクトを立ち上げました。コロナなど様々な難問にぶつかりましたが、2021年2月6日(土)に平九郎さんの生まれ故郷の深谷市で無事初演の幕を下すことができました。
脚本:酒井 清
1951年埼玉県狭山市生まれ。武蔵野音楽大学声楽科卒業、同大学院音楽研究科終了、声楽・合唱指揮専攻。オーストリア国立ウイーン音楽大学に留学。留学中にバリトンからテノールに転向。元日本合唱協会団員。声楽家、指揮者、詩人。詩集「浮く」を出版。趣味は哲学、読書、ドライブ。愛読書は「自己の探求」(中村元:インド哲学者、仏教学者、比較思想学者)
作曲:西下 航平
1992年宮城県仙台市生まれ、石川県白山市育ち。東京音楽大学作曲指揮専攻作曲「芸術音楽コース」を首席で卒業後、東京音楽大学大学院作曲指揮専修修士課程修了。幅広い編成の作編曲作品があり、出版・CD収録曲多数。ズーラシアンブラス契約作編曲家。また指揮者や伴奏ピアニストとしても活動の幅を広げている。